子供の絵を原理主義的に芸術の高みに据え、礼賛しようとしているのではありません。ただ、子供が見た一瞬のありのままの世界の姿は、永遠に残されるべきだと思う。せめてその世界をできるだけ長く美しくとどめておきたい。私はそうしたパブリックアートを完成させたいと切望していました。今回それができたことが、何よりの経験として私の中に残り、タイルという形で子供たち、親たち、園にも残った。それは意味のあることだと思います。
子供たちの絵も、残念ながら成長するにつれて試練と隣り合わせになります。無垢な世界はだんだん現実に近寄っていき、空想と混濁した視野はより現実世界へと補正され、他者の目にさらされることで評価を受け、あるいは心ない言葉に傷つき描くことをやめてしまう。この悲しい出来事をどうすることもできません。そこで生き残った者でさえ、生活をしていこうとすれば自分の作品のポジションを考え始める。人のやっていない表現とは何か、どうすれば売れるのか、どうすれば先端たりえるのか。それはまともな帰結かもしれない。しかし多くの絵画は、足元を見失った表現に陥るリスクにさらされます。夢を追い続けることに人生をかけることはギャンブルだ。その仕事に意味があったとして、評価は後からやってくる。これは40年以上美術に人生をかけてきた一人の人間の証言です。
自らの事情はさておき、残すべきものを優先に考え実行する。それが今回、園児とのコラボレーションとして生まれました。演奏者から指揮者へと立場が変わった、といったイメージでしょうか。作家という一線を退いたところで生まれてきた、みんなの作品という意味をかみしめています。


























