2026年7月3日

たちばな童園タイルパネル

 子供の、とくに幼稚園児童くらいまでの幼少期の子供の絵は、無垢な感性にあふれています。絵を描くということは手触りでもあり、それを確かめつつ前に進むという感覚なのでしょうか。子供のころを振り返ってみると、まだ物を観察するということもわからずに描いた絵は鳥に足が四本あったり、ただ画面を筆でぐるぐるとかき回して四角いとは何かを確かめたりといった行為だった気がします。そこに私たち大人は、自分たちが失ってしまった芸術の萌芽を見て取ります。

 現代の美術を目にするとき、ハッとして美しい、素晴らしいと感じられるものがあります。しかし目が肥えたせいか、流行っているともてはやされる絵を見ても、どこかで見たもののように映り、精巧で緻密な絵には引き込まれることもありますが長くは見続けられず飽きてしまう。メディアやアート・フェアで取り上げられる多くの作品は、エゴの塊のように見える。上手い、迫力がある、しかし感心しない。描くことに慣れすぎている。饒舌でありすぎる。不思議だが、その世界と同調できない。

 子供の絵を原理主義的に芸術の高みに据え、礼賛しようとしているのではありません。ただ、子供が見た一瞬のありのままの世界の姿は、永遠に残されるべきだと思う。せめてその世界をできるだけ長く美しくとどめておきたい。私はそうしたパブリックアートを完成させたいと切望していました。今回それができたことが、何よりの経験として私の中に残り、タイルという形で子供たち、親たち、園にも残った。それは意味のあることだと思います。

 多くの場合、子供の絵は紙に描かれ家に持ち帰られ、しばらくすると押入れの中に隠れ、いつの間にか捨てられてしまう運命にある。親であれば誰しも思い当たるふしがあるでしょう。

 子供たちの絵も、残念ながら成長するにつれて試練と隣り合わせになります。無垢な世界はだんだん現実に近寄っていき、空想と混濁した視野はより現実世界へと補正され、他者の目にさらされることで評価を受け、あるいは心ない言葉に傷つき描くことをやめてしまう。この悲しい出来事をどうすることもできません。そこで生き残った者でさえ、生活をしていこうとすれば自分の作品のポジションを考え始める。人のやっていない表現とは何か、どうすれば売れるのか、どうすれば先端たりえるのか。それはまともな帰結かもしれない。しかし多くの絵画は、足元を見失った表現に陥るリスクにさらされます。夢を追い続けることに人生をかけることはギャンブルだ。その仕事に意味があったとして、評価は後からやってくる。これは40年以上美術に人生をかけてきた一人の人間の証言です。

 自らの事情はさておき、残すべきものを優先に考え実行する。それが今回、園児とのコラボレーションとして生まれました。演奏者から指揮者へと立場が変わった、といったイメージでしょうか。作家という一線を退いたところで生まれてきた、みんなの作品という意味をかみしめています。







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